テキストに依らないストーリー表現|20枚シナリオの書き方事講座

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特別講座:”テキストに依らないストーリー表現(ICO)”

■文芸作品の形式のひとつに、戯曲というものがあります。

基本的には舞台劇用に書かれた脚本を指しますが、必ずしも舞台上演を前提とはしない=脚本の形式で書かれた文芸作品のことも意味します。
長らく、戯曲とは舞台芸術に付随する文芸作品として、ドラマや映画のシナリオとは区別されることが多かったようですが、近年では両者の境界を取り払い戯曲として評価する動きもあるようです。
脚本=シナリオとはそれ自体がひとつの作品として完成しているものであり、それに基いて映画を撮影するのは、一旦完成された作品を解体し再解釈することではないのか……映画監督の押井守はそのような疑問を抱いていた時期があったといいます。



小説や、文芸作品として単独で評価される戯曲は、それが言葉で表現されている以上、テキストに依存することは不可避と言えます。しかしそこに、映像を伴った場合はどうでしょうか?
映画やドラマにあって映像こそは、その物語世界を描写する媒体そのものです。かつて、まだ音声を伴わない映像によって創られたサイレント映画は、テキストへの依存を最小限度に留めていましたが、それがストーリーとして成立しないか、と言えばそんなことはありませんでした。

映像という表現があれば

■音声や文字に依らずとも、ひとつの世界やストーリーを表現することは可能なのです。

サイレントの時代が終わってなお、時に無声映画が試みられるのは、映画の持つ、映像の表現力への志向を示していると言っても過言ではないでしょう。(リュック・ベッソンのデビュー作である”最後の戦い”がセリフに依存しないノー・ダイアローグの映画であったことは有名ですね)映画がセリフを伴うシナリオに依存しているのは、それが表現として観客に理解しやすいから、という理由に過ぎません。



ゲームにおいても、事情は同じと言えるでしょう。
初めてストーリー性を持ったシューティングゲームとして評価された『ゼビウス』では、物語がテキストで語られることはなく、ただ美麗な背景と意味ありげなデザインが、そこにストーリー性を喚起させる作りになっていました。
明確なストーリー性を持ちながらセリフへの依存度を最小限に抑えた近年の作品に、『ICO』があります。このゲームでは、主人公のイコやヒロインのヨルダのセリフはすべて架空言語で語られており、音声を聞くだけではその意味を理解することはできません。



音声に字幕はつくのですが、意味の通る日本語で表示されるのはイコのセリフだけで、ヨルダや他のキャラクターのセリフは解読不能の文字で表示されます。
一見、プレイヤーを突き放しているようにも思えるシステムですが、それを補ってあまりあるのがそのデザインワークと映像表現です。
舞台となる廃墟の城は、主人公のイコ同様の、角の生えた子供の彫像など、実に曰くありげな意匠に満ちており、プレイヤーの興味を惹きます。ヒロインのヨルダは言葉こそ理解できないものの、その消えてしまいそうな容姿や、しなやかで少女らしいその動作が実に儚げで、プレイヤーの保護欲をかきたてます。



■そして、二人で手をつないでアクションを行う

このゲーム独自のシステムが、言葉の通じないヒロインとの意識の交流を感じさせる重要な要素として機能します。
『ICO』は、安易にテキストで説明するのではなく、敢えて映像表現によることで、プレイヤーをモニターの外側から一歩、ゲームの世界に引き込むことに成功した、実に見事な作品と言っても何ら過言ではないでしょう。
それは同時にシナリオの限界を感じさせるものでもありますが、決してそこにシナリオの技法が不要であることを意味するものではありません。



元々シナリオとは単に登場人物の台詞や行動を表現するだけのものではありません。その作品世界そのものを表現し、ストーリーの流れを決定づける、その柱としてのシナリオは、表現方法やシステムが変わっても、決して揺らぐものではありません。
重要なのは、その作品で何を表現したいのか。
それを製作者自身が理解しておけば、セリフに依存しなくても、映像によって伝えたい世界や物語を伝えることは十分可能なのです。
そしてその表現したい世界を構築することこそ、シナリを制作する立場の人間に託されていることなのです。

 

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